2年前の“未確認生命体関連事件”の教訓を経て、警視庁が開発を進めた「対未確認生命体戦闘用強化外骨格および強化外筋」は、その名称が示すように、装着員の攻撃力と防護力の強化を目的としている。
しかし、各システムの設計思想にはへだたりがある。武器にたとえるなら、G3システムは拳銃、G3−Xはマシンガン、そしてG4システムはミサイル。破壊力はアップしているけれども、「ミサイルのほうがマシンガンより優れている」とは言い切れない。
あくまでも「人間のための道具」であるG3システムに対し、G3−Xにおいて、その主従関係は微妙なものとなっている。人間が機械を使うのか、機械が人間を使うのか。それは戦闘状況によって変動する。
この関係が、ほぼ完全に逆転しているのがG4システムである。人間がG4を装着するというより、G4が人間を1個の部品として使用する。これにより、G4システムは、人間にはありえないパワーとスピード、そして機械にはありえない柔軟性を兼ね備えた、理想の戦力となっている。
トレードオフとして差し出さなければならないのは、装着員の生命。G4システムが必要とするのは、極論すれば「装着員の筋肉や神経組織」という部品であり、「生きている人間」である必要はない。人間の限界を越えた活動をつづけることの負荷によって、装着員はやがて死に至る。しかし、装着員が死んでも、肉体が腐敗しないかぎり、G4システムは機能しつづけることができる。
人が、人を越えるためのシステム。
しかし、完全に人を越えてしまったとき、果たしてそれは「人」であると言えるのだろうか?
陸上自衛隊の深海理沙は、警視庁から設計図を盗み出してG4を開発した。
だが、彼女はそれだけにとどまらなかった。ベースシステムこそ小沢澄子からの剽窃だが、超能力者の存在に着目し、その能力をG4システムとリンクさせたところに、深海理沙の独創性がある。
彼女の「G4計画」は、単に1個の兵器をつくろうとするものではない。
自衛隊は、あくまでも専守防衛の組織。敵の攻撃を受けて、初めて行動する。それは、自衛隊が「先制攻撃を仕掛けてくる敵を迎撃するための戦力」であることを意味する。
しかし、まず相手の迎撃力を叩くのが先制攻撃というものだ。自衛隊がどれほど強大な戦力を持ったとしても、敵は、その戦力を麻痺させうる作戦を立ててから攻撃を仕掛ける。したがって、自衛隊は敵の第一撃を受けた時点で、戦力のおおかたを損耗させていることになる。
機能できない迎撃力───というパラドックス。
この矛盾を打破する策として、理沙が目をつけたのが、超能力者が増えている事実。
予知能力者とリンクしたG4は、敵の攻撃を事前に予知し、迎撃する。敵が攻撃を仕掛ける前に、すでに理想の反撃を開始しているのだ。
事実上、時間の制約からすら解き放たれたG4は、完全無欠の防衛兵器となる。
小沢澄子は、深海理沙と激しく対立する。
たしかに2人は立場がちがう。一警察官として、個々の市民の安全を最優先する澄子と、自衛官として、国全体の安全を考えなければならない理沙。
しかし、それならば、なぜ澄子はG4システムを設計したのか? 思考実験以上のつもりはなかったのかもしれない。だから、彼女はG4の設計を封印した。しかし、封印せざるをえないようなものを設計するとは、どういうことなのか?
澄子がG4システムを設計したのは、警察官という公的な立場としてではなく、あくまでも個人的動機によるものだ。G4システムが設計できることが分かっている以上、彼女は設計せざるをえなかった。創作欲を押さえきれない芸術家のように。それは、「天才」小沢澄子のエゴともいえる。
一方、異端ではあるが、あくまで自衛官としての自分の役割に忠実に行動しているのが理沙だ。そのためには、自分や他人のエゴすらも捨て去ることを厭わない。個人としての思惑よりも、社会的責任をまっとうしようとする。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているのか………?
G4システムを装着する水城史朗の存在は、氷川誠の喉元に突きつけられたナイフとなる。
水城史朗の存在は、氷川誠に「お前は誰だ?」と厳しく問いかける。「お前は誰だ?」「お前は何者だ?」と。
氷川誠は、その問いかけに答えることができるのだろうか?